3rd season
ここのところ、ずっと仕事に忙殺される毎日だ。厄年を前にして、身体もだいぶしんどいと感じている。白髪が目立つようになったし、最近は視力も衰えた。ストレスがたまっているせいか、ちょっとしたことで苛立ち、すぐまわりの人に当たってしまう。
「ちょっと荻野くんさ、ちゃんと数字出しとけって言ったろ! なにやってんだよ! ったく」
職場だけじゃない。家に帰ってもそうだ。
「電気点けっぱなしで寝るなってあれほど言っただろ! てか、洗濯干す気ないなら洗濯機回すなっつの。あーもう…」
妻や子どもに冷たく当たるのは、よくないとわかっている。でも、仕事が忙しすぎて、家族しかストレスのはけ口がない。
自分が何のために生きているのか、今はよくわからない。
そんな忙しいさなかに、実家の母が亡くなった。
日曜日の今日はひとりで母の遺品整理をしに来ている。
休日くらいゆっくり休みたいけれどそんなヒマはない。母は長いこと病気をしていたから覚悟はできていたし、妻や子どもたちの前で弱々しい自分を見せたくもない。でも正直、そろそろ仕事を辞めたい。
ふと、居間の隅で埃をかぶったピアノに目がとまった。
「どうすりゃいいんだ、これ…」
小さい頃、母と一緒にピアノ教室に通った。そのときに父が買ってくれたピアノだ。当時はすごく大きいと思ったけれど、今見るとそうでもない。
ピアノ教室はきつかった。家に帰っても、毎日練習させられた。あのときもつらかった。一刻も早くやめたかったのに、なかなかやめさせてもらえなかった。ふと、ピアノのカバーを外して、鍵盤を押してみる。
「全然だめ。ふてくされないでちゃんとやるの。うまくいかなくても、自分でピアノやるって決めたんでしょう。じゃあ目の前のことを頑張る。それしかないのよ」
母は厳しかった。できるまで何度も練習させられたし、叱られた。
僕は泣きながらピアノを弾いていた。
なんだ、昔と変わってないな。
あの頃は、大人になれば楽になると思ってたのに。
「大人になったら、あなたの自由に生きなさい。でもね、今はお母さんの言うこと聞いて。頑張るの」
自由に生きなさい、か。全然自由じゃないよ。
ため息が出る。僕はふと手にしたスマホに、母への気持ちを綴ってみた。
〈 遺品整理、だいたい終わったよ。あとは業者さんにやってもらうよ。今、久しぶりにピアノの前に座ってるんだけどさ、懐かしいよね。あんなに練習したのに、もう指、動かないや。それにしても、なんでピアノなんかやってたんだろうな。別に音楽が好きでもなかったのにさ 〉
ピアノにカバーを掛けて、そろそろ家を出ようとしたそのときだった。
スマホが鳴った。見ると、それは母からのメールだった。嘘だろ。なんだよこれ。
相変わらず全然だめ。ふてくされてばっかり。なによ母親が死んだくらいで、仕事が忙しいくらいで、そんなイライラしてさ。子どものときと全然変わってないじゃないの。目の前のこと頑張る。それしかないのよ、人生なんて。
ははは。だからなんだよこれ。誰だよこんなメール。
あー、頭ん中が変になったかも…。
僕はピアノの前に座って、もう一度ピアノを弾いてみた。
そして思い出した。
そうだ、僕は母に喜んでほしくて、ピアノをはじめたのだ。
自慢の息子になりたくて、ピアノを弾けるようになりたかったのだ。大好きな人に喜んで欲しい。それだけだった。
⼦どものままだと⾔われるのなら、そのとおり。同じことだ。
妻や⼦どもの喜ぶ顔を⾒るために、僕は⽣きていこう。明日からまた、目の前の仕事をもう少し頑張ってみよう。
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放送日:2019年5月21日|出演:相木隆行 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす