1st season
ぼくには絵描きの叔父がいる。
母の弟で、小さい頃はよく叔父のアトリエに遊びに行った。
ただ、絵描きといっても叔父は有名な画家ではない。無名の貧乏画家だ。五十歳を過ぎても独身で、ろくに仕事もせず、絵を描くしか取り柄がない。なのに、困ったことにその絵もさっぱり売れない。
親戚はみな、そんな叔父のことを馬鹿にしていた。
でもぼくは叔父のことが好きだった。
物静かでやさしかったし、なにより、ぼくは叔父の描く絵が好きだった。
油絵なんだけど、ゴーギャンのような荒々しいタッチで、モディリアーニのような不思議なかたちの人物を描く。色は少し暗めで、陰鬱。
叔父の絵のどこが好きなのかは、自分でもわからない。
でも、なぜだか小さいときから好きだった。
「そうか、良太は俺の絵が気に入ったか。うれしいねえ。大人になって金持ちになったら全部買い上げてくれよな」
叔父はよく、アトリエを訪れたぼくの頭をなでて、本当に嬉しそうに笑ってくれた。ぼくにしか見せない笑顔だった。
「俺にとって絵を描くっていうのはね、メシを食うためにやることじゃないんだ。なんていうかな、祈り、みたいなものかな。はは、難しい話だよな。いや、いいんだ。なんでもない」
その叔父が、二年前、アトリエで倒れた。
心筋梗塞。発見されたのは、亡くなってから一ヶ月も経ってからだった。
財産なんてほとんどなかったから、親戚同士、遺産相続で揉めることはなかったけれど、問題は残された大量の絵だった。
価値がないなら、それはただのゴミ。引き取り手がなく、廃棄処分されそうだったので、ぼくが全部引き受けることにした。
そのときのぼくは、はっきり言って人生のどん底だった。
勤めていた会社は倒産し、長年付き合った恋人にもふられた。別れ際に、ぼくは彼女から言われた。あなたには夢がないからつまらない、って。
叔父の絵を引き受けることにしたのは、ちょうどそんなときだった。
ぼくは叔父の絵を世界に広めたいと思いついた。それがぼくの夢になる。
夢を叶えて、世の中を見返してやりたいと思った。叔父を馬鹿にした人たちと、ぼくを捨てた彼女を。
そしてぼくは画商をはじめた。
自分の部屋を事務所にして、名刺を作って、営業をはじめた。
でも、ぼくはアートの世界のことなんて何も分かっていなかった。同じようなレベルの絵は世の中にごまんとあって、誰も叔父の絵に見向きもしない。売れるどころか、見てもらうことすら難しかった。
それでも、いろんな画廊に売り込みに行ったり、カタログを作ったり、展覧会の企画を立てたり、努力はしてみた。
でもやっぱり、売れなかった。
今日、ぼくはハローワークで新しい仕事を見つけた。
来月からは輸入建材の会社の正社員として働く。結局、夢はあきらめた。
帰り道、電車の中でぼんやりと景色を見ながら、ぼくは叔父さんに申し訳ない気持でいっぱいだった。
〈叔父さん、ごめん。ぼくにはできなかった。そもそも絵の世界のことなんて何も知らない素人なんだから、考えてみれば当たり前だよね。それに、途中でわかったんだ。叔父さんは有名になったり、名誉がほしくて絵を描いてたんじゃないんだよね。それは叔父さんが望むことじゃないんだ。気づくのが遅かったけど…〉
就職と同時に、この部屋も引っ越すことにした。ダンボールの山のそばには、叔父さんの絵が大量に積み重ねられたままだ。処分するしかないのか。そう思うと、悔しさで涙が出てくる。
そのときだった。ポケットのなかのスマホが震えた。
見ると、知らないアドレスからのメール。
驚いた。それは、なんと叔父からのメールだったからだ。
良太、迷惑かけて悪かったな。俺の絵はまあ好きに処分してくれ。と、言いたいところだけど、もし気に入ってくれる人がいたら、タダでもいいからやってくれや。
俺は結婚もしないで、子どももいなかったけど、それが、俺にとっては「絵」だったんだよ。俺の絵は、俺の人生そのものなんだ。だから本音を言えば、捨てられるのは少し悲しい。俺が死んだとき、お前が絵を救ってくれた。本当にありがとうな。でも、もう十分だよ。俺に絵があったように、良太、お前にもお前の人生がある。自分の人生を生きろ。な。
メールはそこで終わっていた。誰かのいたずらかと思ったけれど、こんな手の込んだいたずらをする人間がいるとは思えない。
それに確かに、これは叔父の言葉だ。
ぼくは叔父の絵のなかから、一番好きな絵を手にとって、部屋の壁に飾ってみた。何も考えず、ただじっと正面から眺める。
いい絵だな、と思った。やっぱり捨てたくない、と思った。
〈叔父さん、ぼくはいつか、この絵が似合うような家に住むよ〉
そうだ、一生懸命働いて、貯金して、叔父の絵が似合う家を建てよう。
それを、ぼくの新しい夢にしよう。
叔父に、返信して伝えようと思った。ところが、さっきのメールはいつのまにかきれいさっぱり消えて、どこにもない。
狐につままれたような気分。なんだったんだろう。
でも今、目の前にある叔父の絵に、ぼくは今まで感じたことのない、力強いものを感じている。それは自分の心の中にその絵を飾ったみたいな、不思議な気持だった。どうやらぼくは、ようやく叔父さんの絵の価値を、わかりはじめたみたいだ。
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放送日:2017年11月7日|出演:樋口雅夫 荒井和真|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす