3rd season
夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したらしい。
そんなロマンチックな逸話が、都市伝説として広がっている。私にそう教えてくれたのは、高校時代に通っていた塾の先生だった。
私は先生に片想いをしていた。先生と結婚したい、と冗談めかして何回か告白したこともある。でも、「はは、二十歳になってからまた言ってくれよ」なんていつもはぐらかされた。
「二十歳になってからって、お酒じゃないんだから」
「俺は大人の女しか興味ないんだよ」
高校を卒業したとき、なんとかケータイのメールアドレスだけ教えてもらった。当時はまだスマホじゃなくてケータイだった。
「先生、二十歳になったらホントにメールするからね」
「おう、待ってるよ」
二十歳になったとき、私は東京にいて、同じ大学生の男と付き合っていた。でも、誕生日に恋人の腕に抱かれながら私が考えていたのは先生のことだった。先生、元気かな。先生、もう結婚したかな。
それからも私は自分の誕生日が来る度に、ほんの少しだけ、先生のことを懐かしく思い出した。
先生が亡くなったと知ったのは、今年のはじめのこと。同じ塾に通っていた地元の子が同窓会のときに教えてくれた。
私たちはもう十八歳でも二十歳でもなく、三〇歳のいい大人になっていた。そして私はいまだに独身だ。
長く付き合った人はいた。でもその人とは結婚できなかった。
一度、その彼に夏目漱石の話をしたことがあった。
「あのさ、『I love you』って『愛してる』とか『大好き』とか訳すじゃん。でも夏目漱石はね『月が綺麗ですね』って訳したんだって。なんか素敵じゃない?」
ところが、彼の反応は、ふうん、って感じの薄いものだった。極端な意訳だね、てかそれ嘘くさいね、とか冷めたことを言った。
さびしかった。私はそのとき、この人は私の結婚相手じゃないと思った。でも惰性でずるずると付き合ってしまった。そして別れた。
私は大学時代からずっと過ごした東京を離れ、今、実家で暮らしている。仕事を探しながらカフェでバイトして、なんとか生きている。早く仕事を見つけたい。結婚相手も探したい。だけどどちらもうまくいかない。私の人生はちっとも素敵でも、ロマンチックでもない。
ある晩、私はふと思い立って実家の車を運転し、高校の時に通った塾まで行ってみた。
懐かしい気持ちになるかと思ったら、その塾の入っていたビルはもう取り壊されて、ガソリンスタンドになっていた。
ちょうどガソリンが少なくなっていたので、せっかくなので私はそこで給油することにした。ガソリンが満タンになるのを待っている間、私はふと、先生にメールを送ってみようと思いついた。元彼には馬鹿にされても、先生なら笑って受け入れてくれる気がした。
〈先生。月が綺麗ですね。先生のいる場所からも、見えますか?〉
高校生のときみたいに、はは、と笑う先生の顔が思い浮かんだ。胸が少し苦しい。三十過ぎて胸キュンもくそもないけど。
そのとき、スマホが鳴った。通知欄に、「先生」の二文字。え? 何これ。エラーメッセージかな、と思ってメールを開いて私は息をのんだ。
そうだね。綺麗な月、ここからでも見えるよ。
まさか。私がテンパっていると、
「レギュラー満タン五五四八円、カードでお支払いいただきましたーありあとあっしたー」
給油が終わったので私は助手席にスマホを放り、エンジンをかけた。何だったんだろう、今のメールは。家に帰ったら確かめよう。
ドキドキしながらアクセルを踏み、国道に出る。すると信号機の向こうに、きれいな白い満月が浮かんでいた。
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放送日:2019年10月29日|出演:松岡未来 相木隆行 荒井和真|脚本・演出:藤田雅史|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす