2nd season
「ハワイ、行きたいわぁ」
それが妻の口癖だった。結婚したのは三十五年前。新婚旅行はハワイの約束だったが、俺の仕事の調整がつかず手近な国内旅行になった。結婚十年の記念にと約束をし直したものの、そのときは双子で生まれた子どもがまだ小さく、それどころじゃなかった。子育てが終わったら行こう、とまた約束をし直したが、子どもたちは揃って医学部に進むと言いだし、学費の捻出で、やっぱり、それどころじゃなかった。還暦過ぎて仕事をリタイヤしたら今度こそ…そんなふうにまた約束をし直して、そして、還暦の前に、妻は死んだ。
いま、俺は太平洋の上でボートに乗っている。
いつかハワイに行こう。その約束を叶えるために子どもたちと相談して、ハワイで散骨することに決めた。船の上で、家族だけのささやかなお別れ会だ。「いつか」のハワイに連れてきてやれるのが、こんなかたちになってしまうなんて。
「いい景色だね。日本とは海の色が違うね」
「そうだな」
「きっとお母さん、喜んでるよ」
「…ああ」
「でも母さん、なんでハワイにこだわったんだろう」
「俺もよくわかんねえんだ」
「いつかハワイ行きたいって、ずっと言ってたもんね」
いつか行こう。いつか…。
なんて便利な言葉だろう。約束を引き延ばして未来に送ってしまえば、今は何もしなくていい。まるで国の借金だ。このハワイの景色、空気、ゆったりとした時間の流れ。結局、それを感じることなく、妻は逝ってしまった。
散骨はあっけなく済んだ。青い海と空。そのなかに妻は溶けて消えた。死んだら、人はどこへ行くんだろう。
その夜、俺たちはレストランでハワイの料理をたらふく食べ、酒を飲んだ。思えば毎日忙しい子どもたちとこうしてみんなで集まって酒を飲み交わすのは、正月を除けば、はじめてのことかもしれない。自然と妻の話になる。思い出が多すぎて、娘はずっとしゃべりっぱなしだ。息子はときどき涙を流していた。いい妻だった。いい母親だった。いくらなんでも早すぎる。俺は、悔しい。
夜遅く、なかなか寝付けなかった俺は、ホテルの部屋のバルコニーで静かに酒を飲んだ。そして、波の音を聞きながら、携帯電話で妻に宛てたメールを書き、下書きフォルダに保存した。
〈これで、約束を守ったことにしてくれないか。許してくれ〉
携帯が震えたのは、その直後のことだ。間違ってメールを自分に送ってしまったかと思った。でも開いてみると、それは妻からのメールだった。
しょうがないわね。許してやるか。
なんだ、これは。
いつか連れてくって言われ続けて、私も、いつか行けるって、夢をずっと見続けられた気がする。本音を言えばね、ハワイなんて、別にどうだっていいの。私がハワイにこだわったのは、あなたとずっと、『いつか』の夢を見ていられるからよ。『いつか』ってそんなに悪い言葉じゃないわ。
子どもたちのいたずらかと部屋の中を振り向いてみるが、ふたりはベッドですやすや眠っている。俺は不思議な気持ちで空を見上げる。夜空には星がいくつも輝いている。
いつか、俺もそこに行くんだな。お前の行ってしまった場所に。
でもそれは「いつか」の話でも、そう遠い先のことじゃない。本当の約束だ。少し怖い。だけど妻が待っていてくれるなら、怖がらなくてもいいような気がした。
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放送日:2019年1月15日|出演:荒井和真 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす