3rd season
六十歳になって初めての結婚。しかも相手は三十になったばかりのまだ若い妻とくれば、まあ、どこにいっても噂話にはもってこいだろう。義理の父親が俺よりも年下なのだから笑ってしまう。結婚式に列席した者は皆、信じられないという顔で俺たち夫婦を見上げていた。俺だっていまだに信じられない。
俺の妻となった茉央は、会社の部下だった。新入社員のとき、彼女の教育担当としてついたのが俺だった。
「犯罪だ」「彼女はお前に何か弱みを握られているんじゃないのか」会社の仲間からはさんざん言われたが、断じて、俺から誘ったのではない。
茉央「あの、部長…。私、部長のことが好きなんです」
告白されたときは何の冗談かと思った。まさか還暦になってこんな幸運が訪れるとは…。
「で、結婚式、どうだった?」
「いやー茉央ちゃんすげえ綺麗だったっすよ。なんで部長なんすかね、意味わかんねっすよ」
「どうせさ、財産目当てじゃないの」
「部長、貯めこんでますからねえ。なんか、親から不動産もかなり相続してるって噂ですよ」
「やっぱり。それよそれ、遺産狙い」
人に言われなくても、俺自身、それは何度も疑った。貯金通帳の残高はけっこうな額だし、親父から相続した資産もある。
実際に一度、言葉にして茉央に確かめたこともある。
「なあ、もし俺が貧乏だったら俺たち、結婚してないよな」
すると彼女はひどく傷ついた顔をして言った。
「そんなふうに思ってたの…? だったら、私、あなたが死んでも相続放棄するって、誓約書、書くから」
茉央は目に涙をためていた。しばらく口をきいてくれなかった。
そんな彼女に、俺は心を打たれた。むしろ財産目立てでもいいと思った。人生の残り時間を彼女と一緒に過ごせる幸せを思えば、財産なんてみんなくれてやる、と。
ところが、だ。…俺より先に、彼女の方が天国に行ってしまった。
会社から部屋に帰る途中の、交通事故だった。
それからの俺は抜け殻のようだ。結婚生活はたったの半年。もしかしたら、俺のせいで茉央は死んでしまったのではないか。俺と結婚なんかしたばっかりに。何度もそう思って自分を責めた。
茉央の三十一回目の誕生日の夜。俺はスマホの中に残っている彼女の写真を眺めながら、ひとり、部屋で酒を飲んでいる。部屋のインテリアは彼女が選んだものがそのままだ。俺はなんとなしに、まだスマホに残っている彼女のLINEのアカウントに文字を打ち込んだ。
〈ごめんな。俺さ、やっぱり信じられないよ。どうしてお前が俺みたいな男を好きになってくれたのかわかんないよ。でもさ、あるとき思ったんだ。俺が死んでもお前が一生困らないように、ちゃんと新しい人と出会えるように、俺は残りの人生でその準備をしようって。そしたら、この歳でなんだかやる気が出てさ。若返ったみたいだったよ。人生が楽しいってはじめて思えた。なのに…〉
それ以上は指先が動かない。俺はそのまま、アプリを閉じた。
葬式のときも、彼女のいない会社でも、この部屋でも、俺は茉央が死んでから一度も涙を流したことはない。今夜くらいは泣けるかと思って飲んだ酒だが、どうやら六十年も生きているうちに俺の涙は涸れてしまったらしい。
そのとき、テーブルの上でスマホが鳴った。見ると、茉央から新しいメッセージが。
私は本当にあなたのことが好きでした。それだけは、信じて。
いったい誰のいたずらだ。会社の誰かが茉央のアカウントを使ってこんなことをしたのだろうか。ふん。ふざけやがって。
でももし、これが本当に天国からのメッセージだったら…。
俺は思う。人の心の中なんて、結局は誰にもわからない。だからこそ、人は信じることしかできないのだ。俺はスマホを放り投げ、酒を口に含んだ。
俺も、好きだったよ。本当だよ。
そう呟いたら、胸の奥から涙がこみあげてきた。
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放送日:2019年11月19日|出演:荒井和真 松岡未来 佐藤みき 相木隆行|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす