3rd season
夫が倒れたのは、夏の暑いさなか。海外出張に出かける日の朝でした。
「北京は今週雨だって。サマーセーター、やっぱり着てったほうがいいんじゃない?」
「スーツケースに入れたよ」
「でも機内も冷房で寒いかもしれないし…あ、いつものお茶、おみやげ忘れないで。烏龍茶とジャスミン茶と」
「わかってるよ」
「田中さんにもあげたいからちょっと多めに。それから…」
「え、どうしたの? 大丈夫?」
突然の心筋梗塞。慌てて救急車を呼んだものの、夫は意識を失い、その日のうちに病院で亡くなりました。
通夜、葬儀…。そしてベルトコンベアで流されるように日々が過ぎていき、納骨が終わった今、私は静かな家のなかで、言葉をなくして呆然としています。
外資系の会社に勤めていた夫は海外出張が多く、一年の半分は家にいませんでした。おしゃべり好きの私は、しゃべりたいことがたくさんあっても、聞いてくれる人がいなくて不満でした。世界中につながっている空を見上げて、憎たらしい気持ちになることもありました。でもあと二年で定年だから、それからはふたりでのんびり暮らそう。好きなだけおしゃべりをしよう。それを楽しみにしていました。なのにまさか、突然死んじゃうなんて…。
夫が出張の多い人だったから、ひとりでの生活には慣れています。でもひとりでごはんを食べていると、食卓のいつもの夫の場所についつい視線が行ってしまいます。リビングのソファは、夫の寝そべるかたちで凹んでいます。クローゼットには夫のたばこの匂い。くたびれた下着もそのままです。玄関であんぐりと口を開けたままの革靴は、私と同じように、途方に暮れているみたいに見えます。
夫が中国から帰ってくるはずだった日の夜、私はなかなか寝付けずに、空っぽの隣のベッドを恨めしく見つめながら、スマホで夫にあてたメールを書きました。
〈こんな突然いなくなるなんて、あんまりよ。ねえ、いつか帰ってきてくれるよね。今はただ出張が長引いているだけだよね。また会えるよね。あなたに言いたいこと、しゃべりたいこと、いっぱいあるのよ。ねえ、連絡くらいしなさいよ。いつ帰ってくるのよ〉
すると真夜中、不思議なことが起こりました。スマホに、夫からの返信が届いたのです。
うん、今日帰れなくて悪かったな。いろいろ、大変なんだ。こっちの仕事はまだ長引きそうだから、少し落ち着いたらお前がこっちに来ないか? そして、こっちで一緒に暮らそう。
ああ、やっぱり夫はまだ生きていたんだ。出張先で仕事をしているんだ。私は安心しました。
これから、電波が届かない場所にいくからしばらくメールができなくなる。でもいつかちゃんと呼ぶからな。お前の話はそのときにたっぷり聞くよ。じゃあ、また連絡する。
よかった。あ、でもおみやげのお茶だけは早めに送ってって念を押しておかなくちゃ。そう思って指を動かした瞬間でした。
ハッと目が覚めました。…夢、か…。
気づけば朝になっています。隣のベッドはやっぱり空っぽ。
でも、私は、なんだか夫が本当に出張に出かけたまま、という気がしました。
カーテンを開け、空を見上げます。ちょうど空港から離陸したばかりの、早朝の便が飛んでいました。夫が乗るはずだった飛行機かもしれません。私はあれに乗って、いつか夫のそばに行く。そのときまで、話したいこと、たくさん集めておかなくちゃ。
憎たらしかった空が、飛行機が、不思議と、今の私にはかすかな希望に感じられます。
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放送日:2019年9月17日|出演:佐藤みき 荒井和真|脚本・演出:藤田雅史|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす