2nd season
俺は今、十日間の贅沢なヨーロッパ旅行に来ている。アムステルダム、ブリュッセル、そしてパリ。
それは妻とふたりきりの、還暦祝いの旅でもある。何から何まで、全部、息子の嫁が手配してくれた。
その嫁が、先月、突然亡くなった。脳梗塞。
当然、旅行はキャンセルするつもりだったのだが、息子に言われた。行ってこいよ、せっかく彼女が一年かけて用意した旅なんだから、と。
彼女は、実の両親を幼い頃に亡くしていた。息子がはじめて家に連れてきたとき、俺はそれを聞いてちょっと嫌な気持になった。何か、いわくつきの女なんじゃないかという気がして。俺は息子の結婚相手には、幸福な家庭で両親の愛情をたっぷり受けて育った、そんな女性を求めていた。
でも俺は何もわかっていなかった。彼女はとてもいい子だった。やさしく、素直で、気配りもできる。
孫が産まれてからは、家が遠いのに、しょっちゅう孫の顔を見せに来てくれた。俺の妻も、彼女のことを気に入っていた。遊びに来れば、さとちゃんさとちゃんと言って、実の息子と話すよりも、うんと楽しそうに会話をしていた。
そんな彼女が去年の今頃、言ったのだ。
「お義父さん、来年還暦ですよね」
「ん、ああ、そうだな」
「十日くらい、お休み、取れませんか?」
「休み? どうだろうな。なんでまた」
「私たちで勝手に相談したんですけど、還暦のお祝いに旅行をプレゼントしたいんです」
俺は町医者だ。仕事柄、金はあっても長い休みは取れない。
それでも、還暦まで働いたのだ。患者には申し訳ないが、そのくらい、休診にしてもいいかと思った。せっかくだから、息子夫婦の好意を受け取ろうと。まさか、さとちゃんが俺たちよりも早く逝ってしまうなんて。考えたこともなかった。
最後の夜はパリだ。ディナーの後、シャンゼリゼ通りを妻とふたりで歩いてみる。
ふたりとも口数は少ない。考えていることは一緒だった。
ホテルに戻ってから、俺たちは、部屋にあったエッフェル塔の絵はがきに、彼女への想いを書き綴った。
〈さとちゃん、ありがとう。一生忘れられない旅になったよ。みんな、さとちゃんのお陰だ。俺たちはこれからも、ずっとさとちゃんのことを大切に思って生きていくよ〉
本当にいい旅だった。これまでずっと診察室に閉じ込められた人生だったから、目にするもの何もかもが新鮮だった。
俺たち夫婦は60年を生きてはじめて世界がこんなに広いということを知った。
さとちゃんに宛てた絵はがきは、ホテルのデスクの引き出しに、そっとしまってきた。
日付が変わって、その翌々日、俺たちは無事に日本に帰ってきた。
預けた手荷物がベルトコンベアを流れてくるのを待ちながら、ふとスマホを開くと、そこにメールが一通、入っていた。開いてみて、驚いた。それは、さとちゃんからのメールだった。
お義父さん、お手紙、ありがとうございます。旅行、楽しんでもらえてよかったです。
なんだ、このメールは。いつ誰が送ってきたんだ。
私、両親を早くに亡くしたので、親孝行どころか、感謝を伝えることもできませんでした。だから、こうしてささやかですが、親孝行をさせてもらえて、とっても嬉しいです。こんな私を受け入れてくれたお義父さんとお義母さんに、本当に感謝しています。夫や子どもからだけじゃなく、お二人からも、私は幸せをもらいました。
俺は到着ロビーの椅子に座ってそれを読んだ。空港の景色が涙で滲んでよく見えない。
さとちゃん…。
彼女のために、俺にこれから何ができるだろう。さとちゃんがどんなに素晴らしい人だったか、俺はいつまでも、孫に伝え続けよう。
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放送日:2019年3月5日|出演:荒井和真 松岡未来|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす