2nd season
熟年離婚。その言葉が流行ったのはもう十年以上前で、そのとき私は経営コンサルタントの仕事がようやく軌道に乗って、さあこれからという頃だったから、老後のことなんて考えたこともなかった。
そして今。64歳の私は熟年離婚の危機を迎えている。
熟年離婚というのは夫の退職金を目当てに妻が切り出すもの、と思い込んでいたけれど、うちの場合は違った。
ある朝突然、夫が切り出したのだ。
「なあ、ちょっといいか」
「ん、何よ」
「俺たちさ、離婚しないか」
「…。え?」
私たち夫婦はこれまで、とても穏やかな暮らしを続けてきた。
私が26、夫が29のときに結婚した。相手の仕事には干渉しないというのが暗黙のルール。稼ぎも家事も、お互いに半分ずつ分担しあってきた。
子どもができなかったから、私たちは自由だった。私は私の好きなように生きて、彼も彼の好きなように生きた。
私が独立するときも、夫は応援してくれた。
「私、そろそろ独立しようと思ってるの」
「お、いいんじゃないの」
「でも最初の何年かは収入の面で厳しいかもしれない」
「ああいいよ。俺、来年昇進で給料上がるから」
「ごめんね」
「いいって。家のローンももうすぐ終わるし」
夫婦というより、ルームシェアをしている友達同士みたいだったかもしれない。それが私にとっては楽だった。いくらでも仕事に夢中になれた。
「ねえ、私、来週東京出張だからね。木曜に帰ってきて、金曜は篠原さんとコンサート行って、土曜は野村グループの会長さんとランチ。あ、それから来月ね、地域再生プロジェクトの人たちと九州に行くことになりそうなの。バタバタで家のこと任せちゃうけど」
「いいよ、いつものことだろ」
夫は二年前に会社を定年退職して、悠々自適。老後の蓄えも十分ある。ふたりともお金の心配はないし、これといった病気もない。いやみな言い方だけれど、私たちは勝ち組夫婦だと思う。
なのに、なんで今になって離婚を? よそに一緒になりたい女でもいるの? 私の何が気に入らないの? なんで?
でもその問いに、夫は答えてくれなかった。答えのないまま、弁護士同士で話し合うことになった。そして離婚の協議をしている最中に、夫は死んだ。交通事故だった。
それから二週間が経つ。いまだに私は、夫の死を上手に悲しむことができない。夫のスマートフォンを解約するためにショップへ向かうバスの中で、私はふと思いついて、そこにメッセージを残すことにした。
〈なんで、離婚しようだなんて言ったの? 本気だったの? 私のことが嫌いになった? どうして? 何か悪いことした?〉
すると不思議なことが起こった。
バスを降りたとき夫のスマホが鳴ったのだ。見ると、さっきのメッセージに返信が届いていた。
まさか、こんな早死にするなんてな。別れ話の最中に死別だなんて、笑っちゃうよな。
何よこれ。なんで死んだはずのあなたからメッセージが届くの?
俺さ、ほんとは別れるつもりなんかなかったよ。ただ、お前とちょっと喧嘩がしたかったんだ。俺たち最後に喧嘩したの、いつだよ。同じ屋根の下にいてもさ、お前はお前の人生、俺は俺の人生。なんだか、定年して仕事がなくなったら、それが寂しくなったんだよ。一緒にいても、お前はいつもひとりで生きてた。俺はただの付属品だった。俺、お前にもう一度振り向いて欲しかったんだ。残り時間を、お前と本気で向き合いたかっただけなんだ。
私はそれを読んで、張り詰めていたものが切れたような、なんだか力の抜けた気持になった。
そうならそうと言えばいいのに…。なにも離婚しようだなんて…。
私が思っていた以上に、夫は不器用な男だった。寂しがり屋だった。私は夫に、ずっと我慢を強いていたのかもしれない。
ごめん。でも言ってよ。ちゃんと言葉で。
そんなふうに夫を責めたら、ようやく、悲しみの涙がこぼれた。
■
放送日:2018年10月30日|出演:佐藤みき 荒井和真|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす