2nd season
年老いた母が亡くなったのは、突然だった。
いや、本当は突然ではなかった。でも私にとっては突然だった。
母が施設に入ったのは、ちょうど一年前。母は実家を売り払い、施設で余生を送ることを自ら選んで、誰にも相談せず決めた。
「私ね、家売って来週から施設で暮らすのよ」
「ええっ? そんなの聞いてないよ」
「言ってないもの」
「いや、言ってないって、そんな…」
母は独断の人だった。
私はそのとき国家試験の目前で、母のことを気にかけてはいても、会いに行くような余裕はなかった。その後、念願叶って私は試験に合格し公認会計士として大手の監査法人に就職した。三〇過ぎて離婚を経験してからの新しい挑戦だったから、喜びもひとしおだった。
「やったじゃない! それじゃあお正月はお祝いしましょう!」
「お祝いって、実家もうないでしょ。施設で?」
「そうよ、正月くらい顔見せに来なさいよ」
母は丈夫な人でもあった。
父は早くに亡くなっていたが、母はずっと元気だった。
だからそのときはもうがんが進行していたなんて、私には想像すらできなかった。
「どう?ちょっと狭いけどいい部屋でしょう。ベランダもあるのよ」
母は新しい友達ができたと嬉しそうに言っていた。最後に会ったとき、母は、いつも以上にいきいきしているように見えた。
年明けからはじまった仕事は、予想していたよりも大変だった。残業なんて毎日だし、上司に叱られることも多かった。
母の危篤の連絡が届いたのは、忙しい決算期が過ぎ、ようやく一息ついた夏のはじめだった。
母はひとりですべてを片付けていた。部屋のベッドサイドの引き出しにはエンディングノートが残され、そこには通帳や貸金庫のこと、弁護士の連絡先、友人たちの連絡網まで、綿密に記されていた。葬儀のことも、お墓の準備まで整っていた。
母の望むとおりに納骨まで済ませた翌日、私は母のスマホの解約手続きをするために携帯ショップに行った。
待たされているあいだ、私は悔しい気持ちでいっぱいになった。気づくと私は、解約中の母のアドレスに、メールを書いていた。
〈お母さん、なんで何も言わずに逝っちゃうの? 病気のこと、どうして話してくれなかったの? たったひとりの娘じゃん。私のこと、信用できないの? 私のこと、本当は嫌いだったの?〉
文字を並べながら、私の心の中には怒りがふつふつとわいてきた。
私はこれからの将来を母と一緒に暮らすために、ずっと勉強を頑張ってきたのだ。
バツイチになっちゃったけど、お給料のいい一生ものの資格を取って、母に喜んでもらいたい、母を安心させたい。そう思っていたのに。その怒りは、でも、気づけば母ではなく私自身に向けられていた。
そのときだった。ブルッと私のスマホが震えた。
見ると、母からのメール。え? なんで? うそ。
何言ってんの。嫌いなわけないじゃない。私はね、後悔するのがいやなのよ。私が病気のこと打ち明けたら、あなたは私のそばにいてくれるでしょう。わかっているわ。でも、そんなことになったら、私は後悔しながら死んでしまうと思ったの。若いうちの時間って、本当に大事なのよ。あなたにはその時間を大切にして欲しかった。あなたの将来を、私の看病なんかでダメにしてほしくなかったの。あなたは、あなたの生きている時間を精一杯生きなさい。私にはそれができなかった。後悔だらけだった。だから、最後は何も後悔したくなかったの。あなたから試験に合格したって電話をもらったとき、あなたの喜ぶ声を聞いたとき、私は、あぁ、生きててよかった、って思えたわ。心の底から。だから、これでいいのよ。
もしかしたら母が生きているときに書いて未送信だったメールが、何かの具合で送信されたのかも知れない。でもそんなことはどうでもよかった。携帯ショップのソファで、私は人目もはばからず大泣きしてしまった。
母は私のために、元気なふりをしてくれていた。施設に入ったのも、きっとみんな、私のためだった。
携帯ショップからの帰り道、私はクルマを運転しながら心に決めた。母に与えてもらったこの人生を、一生懸命、大切にしよう。いつか私の人生が終わるとき、胸を張って、母に誇れるように。
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放送日:2018年9月4日|出演:松岡未来 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす