2nd season
いなくなってほしい、とずっと思っていた夫が、本当に死んだ。
仕事を定年退職してからは毎日リビングのソファで小難しい本を読んで、私が話しかけてもうんともすんとも言わない。まるで地蔵みたいだった。一緒にいても楽しいことなんて何もなくて、その上、ケチ。
「ねえ、三丁目の三浦さん、明日からイタリアなんですって。娘さんと一緒に。私も行ってみたいわぁ」
「…」
「ちょっと聞いてる? 三丁目の三浦さん」
「うるせえな」
「二週間もイタリアですって。私たちも」
「俺はいいよ。お前、行ってこいよ」
それがいつもの口癖。俺はいいよお前行ってこいよ。
「あーもう、うちの夫ほんと邪魔なのよ。早くいなくなってほしいわ」
女友達と話すとき、私はそんなふうに夫の愚痴をこぼすのが常だった。
そんな夫がある日突然、本当に死んだ。心筋梗塞。
今日も相変わらず静かだわ、と思っていたら、心臓が止まっていたのだ。
葬式を出して、納骨して、いろいろな手続きを済ませたら、知らぬまに夫がかけていた生命保険がおりた。
ひとりになって、お金持ちにもなった私は、念願の旅に出た。
はじめての海外旅行。行き先はイタリア。ミラノからローマ、ベネチアをめぐるパックツアー。
ところがミラノに着いた翌日、私は時差にやられて体調を崩し、丸一日をホテルの部屋で寝て過ごすことになってしまった。
異国のホテルの部屋はとても静かだった。
「やだ、パジャマ忘れてきちゃったわよ」
「ああ、お茶が飲みたいわ。荷物に入れてくればよかった」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、私はふと、ホテルの部屋の静けさが、夫のいた家の静けさと似ていることに気づいた。
「もう、このエアコン、どうしたらもっと弱くできるのかしら。ちょっと寒すぎるわよねえ」
「なんだかお腹減ってきちゃったわね。あなたお夕飯何食べたい? ピザ?スパゲッティ? 私、ごはんとお味噌汁が食べたくなってきちゃった」
まるで部屋のどこかに夫がいるみたいだった。ふふ、でもばかみたい。
そんなことを思いながら、ホテルの案内に手を伸ばしたそのとき、枕元の携帯電話が鳴った。見ると、とうに解約したはずの夫からのメールだった。
相変わらずうるせえな。味噌汁なんかあるわけねえだろ。
なによこれ。驚いて私は頭がクラクラした。まるで本当に夫がつぶやいているみたい。いったい誰?こんなメール送って寄越すの。そう思いながら、でも、私は声を出す。
「わかってるわよ。だからいまルームサービスでピザでも頼もうと思ったの。でも電話しても言葉があれよねえ…。いいわ。今日はお夕飯なしでもう寝ちゃう。早く時差ボケ直さなきゃ」
夫は返事なんて滅多にしてくれなかった。ああ、でも、話はちゃんと聞いてくれていた。そのことに、私は今さらになって気づく。
ケチな夫は、私がひとりになったときのために、十分すぎるほどのお金を残していた。生活に不自由しないように。旅行だってできるように。
本当は、ケチなんじゃなくて、やさしかったのだ。私はわかっている。
だからこそ、私はずっとずっと話しかけ続けた。一緒に思い出をつくりたかった。そう、いまも。
「あなたも早く寝たらいいわ。明日は美術館に行って、そのあとショッピングなの。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア、ですって。全然おぼえられないわ。ね、一緒に行きましょう」
そのときまたメールが届いた。
俺はいいよ。お前、行ってこいよ。
ふふ。誰のいたずらかわからないけれど、思わず笑ってしまう。
いいわ、聞いた私がばかでした。明日はお買い物だから、ちょっといいお土産を買って、帰ったら仏壇に供えてあげるからね。
そう声にしたら、少し元気がわいてきた。
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放送日:2018年7月31日|出演:佐藤みき 荒井和真|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす