2nd season
四九歳で母が死んだ。ひとりで僕を生んで、育ててきてくれた母。
いくらなんでもそれは早すぎる死だった。
物心ついたときからずっと、僕の知る母は常に忙しい人だった。
「あーもう忙しい。仕事遅れちゃうわ。ご飯、食べたらちゃんと流しに下げておいてよ!」
片親だったしお金もなかったから、母は働くしかなかった。昼と夜で仕事をかけもちしていた。僕が大学生になってもそれは変わらなかった。これからは奨学金とバイトでなんとかすると言ったのに、
「バイトなんかしてる時間あったら勉強しなさい!」
そう言って、母は仕送りを続けてくれた。
ようやく母が楽になったのは、僕が社会人になった年だ。
「あー、ようやく荷が下りた。あとは年金を待つだけだわね」
なのに、そのとき母はもう病に冒されていた。明らかに働き過ぎだった。身体が悲鳴を上げていた。
母の人生は一体何だったんだろう。生活のためのお金をつくるためだけに、母は生きてきたんだろうか。僕はそのお金で大学に行かせてもらって、留学までさせてもらった。母は人生で一度も、海外旅行をしたことがなかったというのに。
留学先のボストンで母のことを話したら、ホストファミリーに約束をさせられた。今度お母さんも連れてきなさい、と。ホストファミリーはとてもあたたかい人たちだった。そこには僕の知らない、大家族のかたちがあった。僕も、そして僕の母も、その一員だと言ってくれた。
帰国してからそのことを話したら、母はとても喜んでいた。
「嬉しいわ。でも私なんかが行ってもいいのかしら」
いつか一緒に行こうと約束した。僕にとって、それが最初の親孝行になるはずだった。
僕は、母が英語の勉強をこっそりはじめたのを知っている。英会話の初心者コースに通い始めたのも、アメリカのガイドブックを買い込んだのも知っている。でも僕は結局、大学の仲間との遊びやバイトに明け暮れ、それを先延ばしにしてしまった。そして社会人になったら、今度は旅行をする長い休みなど取れなくなってしまった。結局、親孝行なんてなにひとつできなかった。
長いこと母と一緒に暮らした家の遺品整理をしていたら、箪笥の引き出しから母のパスポートが見つかった。スタンプひとつない真っ白なページのパスポート。ふがいなさで涙が止まらなくなった。僕は整理の手を止めてボストンのホストファミリーにメールを送り、母の死を伝えた。
そしてそのまま、なんとなく母に宛てたメールを書いた。
〈ごめん。ボストンに行くの、あんなに楽しみにしていたのに。お母さんが働き過ぎたのは僕のせいなのに。大変な思いだけさせて、それで終わりなんてあんまりだよ。親孝行、させてほしかった…。でももう遅いよね…。ごめんなさい〉
送信ボタンを押すと、家のどこかで着信音が鳴った気がした。そういえば母の携帯をまだ解約していない。と、そのときだった。
僕のスマホが震えた。見ると、母からだった。
いやそんなはずはない。なんだろうこれは。間違って自分のアドレスにメールを送ってしまったのか。
でも違った。それは本当に、母からの返信だった。
何言ってんの。あんたはね、勘違いしてる。たしかに毎日仕事が忙しくて大変だったけど、でも私はそれでも幸せいっぱいだったよ。 あなたを産んで、あなたを育てるのは私にしかできないことじゃない。あなたと一緒に生きていくためにいっぱい働いて、うんとうんと幸せな人生だった。親孝行なんてもう済んでいるわ。あなたに出会えたことだけで、私の人生はじゅうぶんよ。後悔なんてひとっつもない。
スマホを持つ手が震えた。涙が止まらない。
そのとき、もう一通メールが届いた。ボストンのホストファミリーからだった。お悔やみの言葉と、悲しみを伝えるメール。それはまるで本当の家族が亡くなったかのように、優しさに満ちていた。
ボストンのみんなにも、僕はちゃんと謝らないといけないと思った。
スマホを置いて、もう一度母のパスポートを手に取る。
これを持って、僕はこの夏、ボストンに行こう。
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放送日:2018年7月17日|出演:相木隆行 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす