2nd season
雑居ビルの四階にある小さなバー。そこが俺の仕事場だ。もうすぐ還暦を迎えるが、夜の商売に定年はない。
俺がここに店を出したのは三十年前。結婚をしたのはその次の年だ。
会社勤めをしていた妻は、当時の言葉でいえばバリバリのキャリアウーマンで、店の客でもあった。
しかし結婚してみると、まるで生活が合わなかった。
昼の仕事と、夜の仕事。俺が仕事に出るとき、家に妻はいない。そして家に帰ると妻は寝ている。滅多に顔を合わせない夫婦だった。子どももできなかった。それでも十年続いたのは、やはり想い合っていたからだろうか。それともただの惰性だったか。
結婚して十年目に俺たちは離婚した。別れてからは、たった一度しか顔を合わせていない。
別れた妻について話をするとき、俺はいつも口癖のようにこう言った。
「二度と会わなければ、死んでしまったのと同じだよ」と。
実際に俺はそう思っていた。そう思うことで、妻への未練を簡単に断ち切ることができた。
一昨日の夕方、いつものように店の準備をしていたときだった。その電話は別れた妻の妹からかかってきた。
彼女が、亡くなった。がんだった。
一度だけ、彼女がひとりでこの店に来たことがあった。離婚して四、五年が経った頃だ。
「珍しいな」
「何にしようかな。そうね…ジントニック」
カウンターの一番奥に腰掛けて、彼女は一杯だけ飲んだ。会話はなかった。帰り際に、千円札を一枚カウンターの上にのせて、彼女は言った。
「私、再婚するの」
「…そうか」
「おめでとうって言って」
「おめでとう」
「ありがとう。じゃあね」
釣りを受け取らず、彼女は帰っていった。
昨日が通夜で、今日が葬儀。もちろん俺は参列していない。いつも通りに昼過ぎに起きて、夕方、この店を開けた。
この仕事をしながら、俺は今までたくさんのカップルをこの目で眺めてきた。幸せな関係も、壊れてしまった関係も。俺はバーのマスターとして、常に傍観者だった。でも、今夜は違う。
客が途切れたとき、俺はふと思い出してジントニックをつくった。
そして、かつて彼女が一度だけ座ったカウンターの奥の席に腰を下ろした。
献杯。「二度と会わなければ死んだのと同じ」なんて平気で口にしていたが、本当にその日が来ると、こんなに落ち込むものか。
ひとり客のほとんどがそうするように、俺も手持ちぶさたでスマホをいじる。気づくと彼女にメールを打っていた。
〈 お前にもう二度と会うことはないと、俺はわかっていたよ。でも、淋しいもんだな。俺は今もずっと、お前のことを思い出しながら生きているよ。お前も少しくらいは、俺のこと、思い出すことがあったかい 〉
ライムの香りが鼻に抜けていく。恨み辛みはいろいろあった。でもアルコールがすべて溶かしてくれる。胸の中に残るのは結局、淋しさだけ。
そのときだった。メールの着信。見ると、彼女の名前が画面に表示されている。俺は驚いてメールを開封した。
私も、もう二度とあなたに会うことはないとわかってた。でもね、あなたの店に行けばあなたがいる。そう思って、私はずっとあなたの店に行かなくても済むように生きてきたの。でもそれって、結局あなたと同じことなのね。
店の外でエレベーターの音が聞こえる。客だ。俺はスマホをポケットに押し込んで素早くカウンターに戻った。このメールはいったい何だろう。誰が送ってきたんだ。続きを読みたいが、でもそれは仕事のあとだ。
「いらっしゃいませ」
いつも通り、俺の仕事は続く。彼女が眠るこんな夜に。
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放送日:2018年7月3日|出演:荒井和真 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす