2nd season
平日の朝は、会社近くのカフェで紅茶を飲むのが日課になっている。
出勤前の一時間、メールのチェックと細かな仕事を済ませてから会社に出るのだ。
その店のカウンターにはいつも同じ女の子が立っている。歳はうちの娘より少し若いだろうか。ランチの時間帯は見ないから、おそらく早朝だけの学生アルバイトだろう。ショートカットで笑顔がかわいい。
「おはようございます」
「おはよう。ホットの紅茶をトールで」
「はい、マグカップでのご提供でよろしいですか」
「うん」
カフェは仕事は捗るからよいのだが、俺はコーヒーが苦手だ。甘ったるいドリンクも朝っぱら飲みたくないし、冷たいものは身体を冷やす…そんな俺にホットの紅茶を薦めてくれたのが彼女だった。
しかし俺がこの店に通うのも、あと少し。会社から早期退職優遇制度を持ちかけられている。事実上の肩たたき。リストラだ。こうやって朝早くから業務時間外の仕事をしていても、さほど会社の役には立っていないらしい。そのことに、虚しさを感じずにはいられない。
早期退職の募集期限が迫った、ある月曜の朝のことだ。
いつものように店に入ると、カウンターには知らない男の店員がいた。いつもの女の子が見当たらない。自分がストーカーに疑われないか不安だったが、おそるおそる尋ねてみると、彼女は先週で店を辞めたという。
仕事に身が入らない。なんだかそわそわする。いつもの朝のようにパソコンを開き、メールボックスを立ち上げるものの、文面が目に入ってこない。今朝は上司に大事なメールを送るつもりだったのに。鞄の中には、早期退職の記入済みの申込書類が入っている。
気づくと、俺は新規メールの真っ白な画面に、あの女の子へのメッセージを打ち込んでいた。
〈もうお会いできないのがとても残念です。あなたに紅茶を注文するのが、私にとっては毎日の朝のはじまりでした。こんなことを言うのはおかしいですが、もしかしたら、心の支えだったかもしれません。〉
どうせ誰にも届かないからいいものの、五十を過ぎた髭面のおっさんからこんなメールをもらったら、女の子は気持ち悪いだけだろうな…。
そのとき背後から「お客さん」と声をかけられ、俺は慌ててパソコンの画面を閉じた。店長を名乗る男が、退職したアルバイトの女の子から預かっているものがあると言う。 そして、プライベートなことですが、と慎重に前置きをして、教えてくれた。彼女は亡くなったのだと。幼いときからずっと、心臓に重い疾患を抱えていたのだと。言葉が出てこなかった。
店長から渡されたのは、小さな封筒に入ったメモだった。
いつもご利用ありがとうございます。感謝の気持ちをお伝えできないまま、私は退職することになりました。毎朝同じ時間に、同じ座席でお仕事を頑張っているお姿を拝見して、私も頑張らなくちゃ、頑張ろう、と勇気をいただいていました。本当にありがとうございました。これからもお仕事、頑張ってください。
彼女は、俺の名前を知らない。俺も彼女の名前を知らない。彼女が俺について知っているのは、コーヒーと甘いものが苦手なおっさんということだけだ。なのに不思議なものだ。人というのは毎日ほんの一瞬顔を合わせるだけで、ただ短い言葉を交わすだけで、こんなにも支え合って生きていけるものなのか。
ふと手元を見ると、彼女からのメモがない。おや。どこにやったかな。
テーブルの上をいくら探してもない。足元にも落ちていない。振り向くと店長もいない。おかしいな…。
俺はしばらく、何を考えるでもなく、椅子にもたれてあたたかな紅茶を口に運んだ。その香りに、彼女の笑顔が重なる。俺は目をとじて、じっくりと紅茶を味わう。
そろそろ会社に行く時間。
もう少し粘ってみようか。会社の若い奴らと一緒に頑張ってみるか。
パソコンを閉じて立ち上がる。
店を出るとき、俺は早期退職の申込書類を一式まるごと、返却口の「燃えるごみ」のなかに押し込んだ。
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放送日:2018年5月15日|出演:荒井和真 井上晶子|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす