1st season
考えてみると、イブの夜をひとりきりで過ごすのは、六十年生きていて、はじめてのことかもしれない。
ガキの頃は親兄弟と一緒だった。家を出てからも、付き合う女が途切れたことはなかった。俺の場合は二十歳そこそこで学生結婚をしたから、それからはずっと妻がそばにいた。五年前にその妻に先立たれてからも、ひとり娘が家にいた。
俺の娘は俺に似て器量がよくないせいか、三十を過ぎてもクリスマスの夜にホットカーペットの上でごろごろテレビを見ているような物臭な女だが、その娘が今年の春、ついに嫁に行った。相手は会社の同僚で、ちょっと頼りない優男だが、まあ、悪い奴じゃない。
だから、俺にとっては今夜が人生ではじめてのひとりきりのイブだ。
といっても、別にこの歳でさびしいだのせつないだのと女々しいことを言うつもりはない。ただどうにも、口さびしいのだ。
俺は糖尿病ではあるが、クリスマスケーキが好きだ。
毎年、イブの夜は妻が甘さ控えめの小ぶりのホールケーキを買ってきて、三人で切り分けて食べていた。妻が死んでからも、娘が同じ店で同じものを買ってきた。でもそのケーキを買う人間が、今年はもういない。
どうしてもケーキが食べたくなり、俺はブーツをはいて、おもてに出た。
やけに静かだと思ったら、雪が積もりはじめていた。今年はホワイトクリスマスか。
コンビニではサンタの格好をしたバイトの子がケーキを売っている。でも、コンビニのケーキじゃない。駅前の洋菓子屋には、予約完売の貼り紙がある。確か、ここのケーキでもなかったはずだ。
ふと死に際の妻の声が甦った。
「ねえ…、私に聞いておきたいことある?」
「いや、なにもない。もうみんな、わかってるから」
「私がいなくてもちゃんと生きていける?」
「ああ、心配するな」
今思えば、あれはどこの店のケーキか、それだけちゃんと聞いておけばよかった。
雪はさっきより勢いを増して、どんどん降ってくる。歩くのがしんどくなってきた。
たばこ屋の軒下で立ち止まり、俺はふと、ケータイで、妻にメールを書いてみる。
〈あれ、どこの店のケーキなんだよ。死ぬ前に教えとけよ〉
いや、こんな酔狂なことをしなくても、娘に電話をして聞けば済むことだ。でもせっかくの夫婦ふたりきりのイブの夜を、俺が邪魔しては悪い。
仕方ない。歩いて帰るか。
雪の中を歩き出したときだった。ケータイが鳴った。
見ると、メールの着信。本文を開くと、
三丁目の交差点のパティスリーアライよ。前も言ったじゃない。
とある。
なんだこりゃ。まるで妻から返信が届いたみたいじゃないか。
おかしなこともあるもんだ。
そう思いながら、俺はとりあえず三丁目の交差点まで歩いてみた。
すると、そこには本当にケーキ屋のあかりがあった。
「すいません、クリスマスケーキ、まだありますか。甘さ控えめの、ホールのやつだったと思うんだけど」
ところが、最後のひとつがちょうど売れたところだという。
俺は自分でも不思議なほど、気落ちしてしまった。
歩き疲れたのもある。でもなんだかそれ以上に、これから毎年こんなイブを過ごすのか、という現実のさびしさが、ずっしりと重く、胸にこたえた。
こんな夜は、もう酒でも飲みに行っちまおう。
熱燗で冷えた体を温めて、バーのママと朝までカラオケでも歌おう。
そう思ってきびすを返したとき、またケータイにメールが届いた。
みっともない男ねえ。酒場でイブの夜をやり過ごそうなんて。今日はちゃんと帰ったほうがいい。帰りなさい。
なんなんださっきからいったい。誰のいたずらだ?
もしこれが、本当に天国の妻からのメールだったとしても…
「ったく、死んでもうるせえ奴だ。男がどこで何しようが勝手だろう」
ぶつぶつ呟きながら、結局、俺は家路についた。
待っているのはどうせ真っ暗な家。
妻と娘と過ごした、あの明るくて暖かくて、幸せなイブの夜はもうどこにもない。そう思うと、寒さが一段と厳しく感じる。
ひとりになるっていうのは、こういうことか。俺の残りの人生に、クリスマスなんてもうない。
ようやく家の近くまでたどり着いた。
かじかんだ手をポケットに突っ込んで家の鍵を探しながら、ふと見ると、真っ暗な玄関に、ふたつの人影がある。誰だいったい?
警戒しながら近づくと、小さなほうの影が、俺を見つけて手を振った。娘と、その夫だった。
「なんだお前たち。こんなとこで何やってんだ」
「これ、一緒に食べようと思って」
娘はケーキの箱をぶらさげている。パティスリーアライのロゴマーク。
最後のひとつ、買ったのはお前たちだったのか。
「お父さんメリークリスマス」
「メリークリスマス」
「おう、ちょっと待て、いま、鍵…」
年甲斐もなく胸にこみあげるものがあって、それ以上言葉にならない。
「…まあ、入れよ。寒かっただろ」
玄関のあかりをつける。その光は、俺の胸のなかに灯ったような気がした。
■
放送日:2017年12月19日|出演:荒井和真 佐藤みき 井上晶子 樋口雅夫|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす