1st season
妻が、ある日突然に亡くなった。
スーパーでの買い物帰りに、乗っていた自転車ごと車にはねられた。
会社の会議中に病院から連絡が入り、慌てて駆けつけたときにはもう手遅れだった。
結婚して三十年、家のなかのことはすべて妻に任せきりだった。
もう一日のほとんどをベッドの上で過ごす親父の世話も、妻がみんなやってくれていた。だから、悲しみを通り越して今、俺は途方にくれている。生活のすべてを、これからは俺がひとりで引き受けなければいけない。
「あんたねえ、たかが洗濯とか、たかがゴミ出しとか、たかが缶ビールの補充くらい、とか言うけど、その小さな一個一個が家のなかにどんだけあると思ってんのよ。山よ、山」
生前の妻は、喧嘩をするとよくそんなことを言っていたが、確かに、いざ自分でやってみると、小さな雑用が家のなかには多すぎる。会社と家を往復しながら、それをすべてこなすのは物理的に無理だ。
食事はもっぱら宅配弁当になり、洗濯物とゴミはたまる一方。親父の世話はヘルパーさんに毎日来てもらうことでカバーしているが、その連絡やいろいろな手続きも俺がやらなければならない。
今日は仕事が押して、予定の時間には帰れそうもない。
ヘルパーさんと介護の方針について話し合う約束だったのだが、何度かけても電話が通じないので、メールを送ることにした。「今夜はすいません、明日以降に変更してください」そう入力するのに「こ」と入れると、「今夜」という予測変換が出る。最近のスマホは要領がいい。「今夜」を選ぶと、さらに、「遅くなります」「夕飯は」「いらない」「よろしく」と、あっという間に文章ができあがる。
ふん。会議中なのに、思わず苦笑いをしてしまった。妻にメールを送るとき、俺はいつもこの機能を使って同じ文章ばかり送っていた。
「今夜遅くなります。夕飯はいらない。よろしく」
そのメールはとりあえず下書きフォルダに残して、新規で文章を作り直しながら、俺はまた、なんだかドッと疲れたような気持になった。できることなら、もう家に帰りたくない。
「あのねえ、お義父さんとふたりきりのストレスって生半可じゃないのよ。たまには愚痴らせてよ。え? 何言ってんの。言いたいことなんかまだ十分の一も言ってないわよ」
妻の気持ちも、今になってよくわかる。
身体が自由に動かせない親父の面倒をみるのは精神的にも肉体的にも疲れる。その上に、炊事、洗濯、掃除、衣類の整理にゴミ出し、消耗品の補充、ほかにも小さな用事が、まさに山になって積み重なっている。
ああ、早く楽にならねえかな。もう十分だろ、親父。
ときどき老いた父親を見つめながら、そんなふうに考えてしまう。
そして、そんな自分がいやになる。
メールの着信音が鳴った。あ、すまん、ちょっと。そう言って会議室を抜け出し、ヘルパーさんからの返信だと思ってスマホを見ると、そうではなかった。
メールの差出人が、妻の名前になっている。なんだこりゃ。俺はやはり、だいぶ疲れているみたいだ。
了解しました
なにが了解だよ。誰だこんないたずらをするのは、そう思っているとさらにもう一通。
お風呂は追い炊きして入ってください。冷蔵庫にビールあります。先に寝ます。おやすみなさい
それは、いつも妻が返してくるのとまったく同じ文面だった。なんだよ、まるで妻が生きているみたいじゃないか。そこで俺はふと気づく。あいつもきっと、俺のメールの返信に了解の「り」の字だけ最初に入れて、あとは予測変換のままメールを返したいたんだな、と。
そして妻はそれを俺に送ってから、冷蔵庫のビールを確かめ、夕飯を済ませ、風呂に入って、先に寝ていたのだろう。そんな場面、妻が生きているときは一度も想像したことがなかった。そう、俺は家にいる妻の気持ちなんて、家であいつが何をしているかなんて、まったく考えていなかった。
スマホの時計を見ると、そろそろヘルパーさんが帰る時間だ。
もうすぐ弁当が届く。風呂もわかさないといけない。そうだ、洗濯物も庭に干したままだ。明日のごみは古紙とペットボトルか、用意しておかないと。俺の仕事は、家に帰っても終わらない。
今夜は全部片付けたら、ビールでも飲むか。帰ったらすぐに冷やしておこう。親父がまだ起きてたら、久しぶりに一緒に飲もう。仏壇にも供えて、妻の話をしよう。
会議が終わってからスマホを見ると、妻からのメールは消えていた。ただ、父の様子を伝える、ヘルパーさんからの返信だけが新たに届いていた。
いったいなんだったんだ。もしかしたら、天国からのメールかもしれない。もしそれが本当に妻に届くのなら、あとで一文字ずつちゃんと打ち込んで、「いつもありがとう」と返信してみるか。
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放送日:2017年8月29日|出演:荒井和真 佐藤みき|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす