1st season
夫が亡くなり十年が経ちます。
月日の流れは早いもので、大学生だった娘は三十を過ぎて嫁に行き、この秋には初孫が生まれる予定です。
ひとりの暮らしにも、すっかり慣れました。
友達は多い方ですし、なにしろ私の母が九十を過ぎて健在なのですから、さびしいなどと言っていられません。
でも、私はまだ、夫の遺品を片付けることができないでいます。
夫の書斎は十年前と何も変わりません。ときどき、窓を開けて空気を入れ換え、掃除機をかけていますが、デスクの引き出しも、パソコンも、本棚も、ワードローブのなかも、みんな夫が倒れたときのまま。
先週の日曜日、里帰りをした娘から、十年も経つのだからいい加減に処分した方がいいと言われました。私はついカッとなって、年甲斐もなく口喧嘩をはじめてしまいました。そして無意識のうちに「お父さんのものがなかったら、お父さんが帰ってきたとき困るじゃないの!」と口にしていました…。
娘は不気味なものを見るような目で私を見つめ、何も言わずに夫のパソコンを立ち上げると、リサイクル業者を検索して、見積依頼を送り帰っていきました。
いくら空気を入れ換えても、書斎に入ると、まだ夫の匂いがします。
私はパソコンのスイッチを押し、起動するまで、デスクの引き出しをひとつひとつ開けてみました。一番上の引き出しには、夫の腕時計があります。十年のあいだに電池が切れ、もう針のとまった時計。
夫は高級なものが好きでした。時計も鞄も、靴もスーツも、いいものを買って手入れをし、長く使う性格でした。でもそのくせ、私のものなんて、年に一度の誕生日くらいにしか買ってくれない。ケチねえ、ほんとに。
恨み節をつぶやきながら、メールをチェックします。リサイクル業者からの見積はまだ届いていませんでした。私はふと思いつき、インターネットに「夫 遺品」と入力し、検索してみます。
夫に先立たれた妻は、遺品をどうしているのかしら。とっておくのかしら、すぐに処分しちゃうのかしら。夫の帰宅を想像してしまう私は、やっぱり、どこかおかしいのかしら。
「ただいま。いやあ、今日は疲れたよ。お、巨人勝ってるね、菅野か」
そんなふうにいつもどおり、夫が帰ってきたとき、着替えがないと困るじゃないですか。湯飲みがなけりゃお茶も煎れてあげられないもの。
「おーい、俺のパジャマどこやった? しましまのやつ」
気づくと私は、夫に向けてメールを書いていました。
〈 もう捨てた方がいいのかしら。みんな、あなたの気に入っていたものよ。社長さんにいただいた有田焼の湯飲み、早苗の入学式で新調したスーツと革靴、定年退職のときに買ったこの腕時計。みんな、あなたの大切なものなのに、処分しちゃっていいの?〉
ばかみたい。こんなメール書いてどうするのかしら。やっぱり私、おかしくなっちゃったのかも。ふふ。
そのとき、メールの受信がありました。リサイクル業者かと思って開くと…
久美子、ご無沙汰です。十年前は突然のことで悪かったね。
驚いたことに、それは夫からのメールでした。目を疑わずにはいられません。
俺のものなんて、みんな処分して構わないよ。腕時計やゴルフクラブはみんないいものばかりだから、ネットオークションにでも出せば、高く売れるんじゃないか。それで、お前の好きなもの買ったらいいさ。
誰のいたずらかと思いました。でも、それは間違いなく夫の言葉でした。
いつかはお前もこっち来るだろ。そしたらまた、一緒に暮らそうな。
最後のその言葉を読んで、私は胸を詰まらせました。
気づいたのです。私が十年ものあいだ夫のものを捨てられずにいたのは、私の心の中に、夫に愛されたという自信がなかったから。夫が大切にしていたものを手元に残しておくことで、夫が確かに私のものだったと、思い込み続けていたかったのです。
夫の腕時計をそっと手に取ってみます。定年退職の年に、一緒にデパートで選んだ高級品。ひんやりとして、少し重たい。ざらついた革のベルトは、懐かしい夫の肌のようにも感じられます。
ふと気配を感じて画面に目を戻すと、夫からのメールは消えて、そのかわり、リサイクル業者からの見積が届いていました。
それに目を通しながら、私は心を決めました。
この腕時計だけ残して、あとはみんな処分してしまおう。それで、買い取ってもらったお金で、私は自分のために新しい腕時計を一本買うの。夫とおそろいの。いつかまた夫のそばに戻れる日がくるまで、それをずっと使い続けるの。
それにしても、あの夫からのメールはいったい何だったのでしょう。いくら探しても、もうどこにもありません。
■
放送日:2017年7月18日|出演:佐藤みき 荒井和真|脚本:藤田雅史|演出:石附弘子|制作協力:演劇製作集団あんかー・わーくす